
　ようやくの事でまた病院まで帰って来た。思い出すとここで暑い朝夕を送ったのももう三カ月の昔になる。その頃は二階の廂から六尺に余るほどの長い葭簀を日除に差し出して、熱りの強い縁側を幾分か暗くしてあった。その縁側に是公から貰った楓の盆栽と、時々人の見舞に持って来てくれる草花などを置いて、退屈も凌ぎ暑さも紛らしていた。向に見える高い宿屋の物干に真裸の男が二人出て、日盛を事ともせず、欄干の上を危なく渡ったり、または細長い横木の上にわざと仰向に寝たりして、ふざけまわる様子を見て自分もいつか一度はもう一遍あんな逞しい体格になって見たいと羨んだ事もあった。今はすべてが過去に化してしまった。再び眼の前に現れぬと云う不慥な点において、夢と同じくはかない過去である。
　病院を出る時の余は医師の勧めに従って転地する覚悟はあった。けれども、転地先で再度の病に罹って、寝たまま東京へ戻って来ようとは思わなかった。東京へ戻ってもすぐ自分の家の門は潜らずに釣台に乗ったまま、また当時の病院に落ちつく運命になろうとはなおさら思いがけなかった。
　帰る日は立つ修善寺も雨、着く東京も雨であった。扶けられて汽車を下りるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼に入らなかった。目礼をする事のできたのはその中の二三に過ぎなかった。思うほどの会釈もならないうちに余は早く釣台の上に横えられていた。黄昏の雨を防ぐために釣台には桐油を掛けた。余は坑の底に寝かされたような心持で、時々暗い中で眼を開いた。鼻には桐油の臭がした。耳には桐油を撲つ雨の音と、釣台に付添うて来るらしい人の声が微かながらとぎれとぎれに聞えた。けれども眼には何物も映らなかった。汽車の中で森成さんが枕元の信玄袋の口に挿し込んでくれた大きな野菊の枝は、降りる混雑の際に折れてしまったろう。
　　釣台に野菊も見えぬ桐油哉
　これはその時の光景を後から十七字にちぢめたものである。余はこの釣台に乗ったまま病院の二階へ舁き上げられて、三カ月前に親しんだ白いベッドの上に、安らかに瘠せた手足を延べた。雨の音の多い静かな夜であった。余の病室のある棟には患者が三四名しかいないので、人声も自然絶え勝に、秋は修善寺よりもかえってひっそりしていた。
　この静かな宵を心地よく白い毛布の中に二時間ほど送った時、余は看護婦から二通の電報を受取った。一通を開けて見ると「無事御帰京を祝す」と書いてあった。そうしてその差出人は満洲にいる中村是公であった。他の一通を開けて見ると、やはり無事御帰京を祝すと云う文句で、前のと一字の相違もなかった。余は平凡ながらこの暗合を面白く眺めつつ、誰が打ってくれたのだろうと考えて差出人の名前を見た。ところがステトとあるばかりでいっこうに要領を得なかった。ただかけた局が名古屋とあるのでようやく判断がついた。ステトと云うのは、鈴木禎次と鈴木時子の頭文字を組み合わしたもので、妻の妹とその夫の事であった。余は二ツの電報を折り重ねて、明朝また来るべき妻の顔を見たら、まずこの話をしようかと思い定めた。
　病室は畳も青かった。襖も張り易えてあった。壁も新に塗ったばかりであった。万居心よく整っていた。杉本副院長が再度修善寺へ診察に来た時、畳替をして待っていますと妻に云い置かれた言葉をすぐに思い出したほど奇麗である。その約束の日から指を折って勘定して見ると、すでに十六七日目になる。青い畳もだいぶ久しく人を待ったらしい。


　その夜から余は当分またこの病院を第二の家とする事にした。

　　　　　　　

　病院に帰り着いた十一日の晩、回診の後藤さんにこの頃院長の御病気はどうですかと聞いたら、ええひとしきりはだいぶ好い方でしたが、近来また少し寒くなったものですから……と云う答だったので、余はどうぞ御逢いの節は宜しくと挨拶した。その晩はそれぎり何の気もつかずに寝てしまった。すると明日の朝妻が来て枕元に坐るや否や、実はあなたに隠しておりましたが長与さんは先月五日に亡くなられました。葬式には東さんに代理を頼みました。悪くなったのは八月末ちょうどあなたの危篤だった時分ですと云う。余はこの時始めて附添のものが、院長の訃をことさらに秘して、余に告げなかった事と、またその告げなかった意味とを悟った。そうして生き残る自分やら、死んだ院長やらをとかくに比較して、しばらくは茫然としたまま黙っていた。
　院長は今年の春から具合が悪かったので、この前入院した時にも六週間の間ついぞ顔を見合せた事がなかった。余の病気の由を聞いて、それは残念だ、自分が健康でさえあれば治療に尽力して上げるのにと云う言伝があった。その後も副院長を通じて、よろしくと云う言伝が時々あった。
　修善寺で病気がぶり返して、社から見舞のため森成さんを特別に頼んでくれた時、着いた森成さんが、病院の都合上とても長くはと云っているその晩に、院長はわざわざ直接森成さんに電報を打って、できるだけ余の便宜を計らってくれた。その文句は寝ている余の目には無論触れなかった。けれども枕元にいる雪鳥君から聞いたその文句の音だけは、いまだに好意の記憶として余の耳に残っている。それは当分その地に留まり、充分看護に心を尽くすべしとか云う、森成さんに取ってはずいぶん厳かに聞える命令的なものであった。
　院長の容態が悪くなったのは余の危篤に陥ったのとほぼ同時だそうである。余が鮮血を多量に吐いて傍人からとうてい回復の見込がないように思われた二三日後、森成さんが病院の用事だからと云って、ちょっと東京へ帰ったのは、生前に一度院長に会うためで、それから十日ほど経って、また病院の用事ができて二度東京へ戻ったのは院長の葬式に列するためであったそうである。
　当初から余に好意を表して、間接に治療上の心配をしてくれた院長はかくのごとくしだいに死に近づきつつある間に、余は不思議にも命の幅の縮まってほとんど絹糸のごとく細くなった上を、ようやく無難に通り越した。院長の死が一基の墓標で永く確められたとき、辛抱強く骨の上に絡みついていてくれた余の命の根は、辛うじて冷たい骨の周囲に、血の通う新しい細胞を営み初めた。院長の墓の前に供えられる花が、幾度か枯れ、幾度か代って、萩、桔梗、女郎花から白菊と黄菊に秋を進んで来た一カ月余の後、余はまたその一カ月余の間に盛返し得るほどの血潮を皮下に盛得て、再び院長の建てたこの胃腸病院に帰って来た。そうしてその間いまだかつて院長の死んだと云う事を知らなかった。帰る明る朝妻が来て実はこれこれでと話をするまで、院長は余の病気の経過を東京にいて承知しているものと信じていた。そうして回復の上病院を出たら礼にでも行こうと思っていた。もし病院で会えたら篤く謝意でも述べようと思っていた。
　　逝く人に留まる人に来る雁
　考えると余が無事に東京まで帰れたのは天幸である。こうなるのが当り前のように思うのは、いまだに生きているからの悪度胸に過ぎない。生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱を踏み外した人の有様も思い浮べて、幸福な自分と照らし合せて見ないと、わがありがたさも分らない、人の気の毒さも分らない。




　　　　　　　

　ジェームス教授の訃に接したのは長与院長の死を耳にした明日の朝である。新着の外国雑誌を手にして、五六頁繰って行くうちに、ふと教授の名前が眼にとまったので、また新らしい著書でも公けにしたのか知らんと思いながら読んで見ると、意外にもそれが永眠の報道であった。その雑誌は九月初めのもので、項中には去る日曜日に六十九歳をもって逝かるとあるから、指を折って勘定して見ると、ちょうど院長の容体がしだいに悪い方へ傾いて、傍のものが昼夜眉を顰めている頃である。また余が多量の血を一度に失って、死生の境に彷徨していた頃である。思うに教授の呼息を引き取ったのは、おそらく余の命が、瘠せこけた手頸に、有るとも無いとも片付かない脈を打たして、看護の人をはらはらさせていた日であろう。
　教授の最後の著書「多元的宇宙」を読み出したのは今年の夏の事である。修善寺へ立つとき、向へ持って行って読み残した分を片付けようと思って、それを五六巻の書物とともに鞄の中に入れた。ところが着いた明日から心持が悪くて、出歩く事もならない始末になった。けれども宿の二階に寝転びながら、一日二日は少しずつでも前の続きを読む事ができた。無論病勢の募るに伴れて読書は全く廃さなければならなくなったので、教授の死ぬ日まで教授の書を再び手に取る機会はなかった。
　病牀にありながら、三たび教授の多元的宇宙を取り上げたのは、教授が死んでから幾日目になるだろう。今から顧みると当時の余は恐ろしく衰弱していた。仰向に寝て、両方の肘を蒲団に支えて、あのくらいの本を持ち応えているのにずいぶんと骨が折れた。五分と経たないうちに、貧血の結果手が麻痺れるので、持ち直して見たり、甲を撫でて見たりした。けれども頭は比較的疲れていなかったと見えて、書いてある事は苦もなく会得ができた。頭だけはもう使えるなと云う自信の出たのは大吐血以後この時が始てであった。嬉しいので、妻を呼んで、身体の割に頭は丈夫なものだねと云って訳を話すと、妻がいったいあなたの頭は丈夫過ぎます。あの危篤かった二三日の間などは取り扱い悪くて大変弱らせられましたと答えた。
　多元的宇宙は約半分ほど残っていたのを、三日ばかりで面白く読み了った。ことに文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的の事実を土台として、類推で哲学の領分に切り込んで行く所を面白く読み了った。余はあながちに弁証法を嫌うものではない。また妄りに理知主義を厭いもしない。ただ自分の平生文学上に抱いている意見と、教授の哲学について主張するところの考とが、親しい気脈を通じて彼此相倚るような心持がしたのを愉快に思ったのである。ことに教授が仏蘭西の学者ベルグソンの説を紹介する辺りを、坂に車を転がすような勢で馳け抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのはこの時である。
　今でも覚えている。一間おいて隣にいる東君をわざわざ枕元へ呼んで、ジェームスは実に能文家だと教えるように云って聞かした。その時東君は別にこれという明暸な答をしなかったので、余は、君、西洋人の書物を読んで、この人のは流暢だとか、あの人のは細緻だとか、すべて特色のあるところがその書きぶりで、読みながら解るかいと失敬な事を問い糺した。
　教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に難渋な文章を書く男である。ヘンリーは哲学のような小説を書き、ウィリアムは小説のような哲学を書く、と世間で云われているくらいヘンリーは読みづらく、またそのくらい教授は読みやすくて明快なのである。――病中の日記を検べて見ると九月二十三日の部に、「午前ジェームスを読み了る。好い本を読んだと思う」と覚束ない文字で認めてある。名前や標題に欺されて下らない本を読んだ時ほど残念な事はない。この日記は正にこの裏を云ったものである。
　余の病気について治療上いろいろ好意を表してくれた長与病院長は、余の知らない間にいつか死んでいた。余の病中に、空漠なる余の頭に陸離の光彩を抛げ込んでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。
（ジェームス教授の哲学思想が、文学の方面より見て、どう面白いかここに詳説する余地がないのは余の遺憾とするところである。また教授の深く推賞したベルグソンの著書のうち第一巻は昨今ようやく英訳になってゾンネンシャインから出版された。その標題は    （時と自由意思）と名づけてある。著者の立場は無論故教授と同じく反理知派である。）


　　　　　　　

　病の重かった時は、固よりその日その日に生きていた。そうしてその日その日に変って行った。自分にもわが心の水のように流れ去る様がよく分った。自白すれば雲と同じくかつ去りかつ来るわが脳裡の現象は、極めて平凡なものであった。それも自覚していた。生涯に一度か二度の大患に相応するほどの深さも厚さもない経験を、恥とも思わず無邪気に重ねつつ移って行くうちに、それでも他日の参考に日ごとの心を日ごとに書いておく事ができたならと思い出した。その時の余は無論手が利かなかった。しかも日は容易に暮れ容易に明けた。そうして余の頭を掠めて去る心の波紋は、随って起るかと思えば随って消えてしまった。余は薄ぼけて微かに遠きに行くわが記憶の影を眺めては、寝ながらそれを呼び返したいような心持がした。ミュンステルベルグと云う学者の家に賊が入った引合で、他日彼が法庭へ呼び出されたとき、彼の陳述はほとんど事実に相違する事ばかりであったと云う話がある。正確を旨とする几帳面な学者の記憶でも、記憶はこれほどに不慥なものである。「思い出す事など」の中に思い出す事が、日を経れば経るに従って色彩を失うのはもちろんである。
　わが手の利かぬ先にわが失えるものはすでに多い。わが手筆を持つの力を得てより逸するものまた少からずと云っても嘘にはならない。わが病気の経過と、病気の経過に伴れて起る内面の生活とを、不秩序ながら断片的にも叙しておきたいと思い立ったのはこれがためである。友人のうちには、もうそれほど好くなったかと喜んでくれたものもある。あるいはまたあんな軽挙をしてやり損なわなければいいがと心配してくれたものもある。
　その中で一番苦い顔をしたのは池辺三山君であった。余が原稿を書いたと聞くや否や、たちまち余計な事だと叱りつけた。しかもその声はもっとも無愛想な声であった。医者の許可を得たのだから、普通の人の退屈凌ぎぐらいなところと見たらよかろうと余は弁解した。医者の許可もさる事だが、友人の許可を得なければいかんと云うのが三山君の挨拶であった。それから二三日して三山君が宮本博士に会ってこの話をすると、博士は、なるほど退屈をすると胃に酸が湧く恐れがあるからかえって悪いだろうと調停してくれたので、余はようやく助かった。
　その時余は三山君に、


と云う詩を遺った。巧拙は論外として、病院にいる余が窓から寺を望む訳もなし、また室内に琴を置く必要もないから、この詩は全くの実況に反しているには違ないが、ただ当時の余の心持を咏じたものとしてはすこぶる恰好である。宮本博士が退屈をすると酸がたまると云ったごとく、忙殺されて酸が出過ぎる事も、余は親しく経験している。詮ずるところ、人間は閑適の境界に立たなくては不幸だと思うので、その閑適をしばらくなりとも貪り得る今の身の嬉しさが、この五十六字に形を変じたのである。
　もっとも趣から云えばまことに旧い趣である。何の奇もなく、何の新もないと云ってもよい。実際ゴルキーでも、アンドレーフでも、イブセンでもショウでもない。その代りこの趣は彼ら作家のいまだかつて知らざる興味に属している。また彼らのけっして与からざる境地に存している。現今の吾らが苦しい実生活に取り巻かれるごとく、現今の吾等が苦しい文学に取りつかれるのも、やむをえざる悲しき事実ではあるが、いわゆる「現代的気風」に煽られて、三百六十五日の間、傍目もふらず、しかく人世を観じたら、人世は定めし窮屈でかつ殺風景なものだろう。たまにはこんな古風の趣がかえって一段の新意を吾らの内面生活上に放射するかも知れない。余は病に因ってこの陳腐な幸福と爛熟な寛裕を得て、初めて洋行から帰って平凡な米の飯に向った時のような心持がした。
「思い出す事など」は忘れるから思い出すのである。ようやく生き残って東京に帰った余は、病に因って纔かに享けえたこの長閑な心持を早くも失わんとしつつある。まだ床を離れるほどに足腰が利かないうちに、三山君に遺った詩が、すでにこの太平の趣をうたうべき最後の作ではなかろうかと、自分ながら掛念しているくらいである。「思い出す事など」は平凡で低調な個人の病中における述懐と叙事に過ぎないが、その中にはこの陳腐ながら払底な趣が、珍らしくだいぶ這入って来るつもりであるから、余は早く思い出して、早く書いて、そうして今の新らしい人々と今の苦しい人々と共に、この古い香を懐かしみたいと思う。

　　　　　　　

　修善寺にいる間は仰向に寝たままよく俳句を作っては、それを日記の中に記け込んだ。時々は面倒な平仄を合わして漢詩さえ作って見た。そうしてその漢詩も一つ残らず未定稿として日記の中に書きつけた。
　余は年来俳句に疎くなりまさった者である。漢詩に至っては、ほとんど当初からの門外漢と云ってもいい。詩にせよ句にせよ、病中にでき上ったものが、病中の本人にはどれほど得意であっても、それが専門家の眼に整って（ことに現代的に整って）映るとは無論思わない。
　けれども余が病中に作り得た俳句と漢詩の価値は、余自身から云うと、全くその出来不出来に関係しないのである。平生はいかに心持の好くない時でも、いやしくも塵事に堪え得るだけの健康をもっていると自信する以上、またもっていると人から認められる以上、われは常住日夜共に生存競争裏に立つ悪戦の人である。仏語で形容すれば絶えず火宅の苦を受けて、夢の中でさえいらいらしている。時には人から勧められる事もあり、たまには自ら進む事もあって、ふと十七字を並べて見たりまたは起承転結の四句ぐらい組み合せないとも限らないけれどもいつもどこかに間隙があるような心持がして、隈も残さず心を引き包んで、詩と句の中に放り込む事ができない。それは歓楽を嫉む実生活の鬼の影が風流に纏るためかも知れず、または句に熱し詩に狂するのあまり、かえって句と詩に翻弄されて、いらいらすまじき風流にいらいらする結果かも知れないが、それではいくら佳句と好詩ができたにしても、贏ち得る当人の愉快はただ二三同好の評判だけで、その評判を差し引くと、後に残るものは多量の不安と苦痛に過ぎない事に帰着してしまう。
　ところが病気をするとだいぶ趣が違って来る。病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない長閑かな春がその間から湧いて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、出来栄の如何はまず措いて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい貴いか分らない。病中に得た句と詩は、退屈を紛らすため、閑に強いられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由に跳ね返って、むっちりとした余裕を得た時、油然と漲ぎり浮かんだ天来の彩紋である。吾ともなく興の起るのがすでに嬉しい、その興を捉えて横に咬み竪に砕いて、これを句なり詩なりに仕立上げる順序過程がまた嬉しい。ようやく成った暁には、形のない趣を判然と眼の前に創造したような心持がしてさらに嬉しい。はたしてわが趣とわが形に真の価値があるかないかは顧みる遑さえない。
　病中は知ると知らざるとを通じて四方の同情者から懇切な見舞を受けた。衰弱の今の身ではその一々に一々の好意に背かないほどに詳しい礼状を出して、自分がつい死にもせず今日に至った経過を報ずる訳にも行かない。「思い出す事など」を牀上に書き始めたのは、これがためである。――各々に向けて云い送るべきはずのところを、略して文芸欄の一隅にのみ載せて、余のごときもののために時と心を使われたありがたい人々にわが近況を知らせるためである。
　したがって「思い出す事など」の中に詩や俳句を挟むのは、単に詩人俳人としての余の立場を見て貰うつもりではない。実を云うとその善悪などはむしろどうでも好いとまで思っている。ただ当時の余はかくのごとき情調に支配されて生きていたという消息が、一瞥の迅きうちに、読者の胸に伝われば満足なのである。
　　秋の江に打ち込む杭の響かな
　これは生き返ってから約十日ばかりしてふとできた句である。澄み渡る秋の空、広き江、遠くよりする杭の響、この三つの事相に相応したような情調が当時絶えずわが微かなる頭の中を徂徠した事はいまだに覚えている。
　　秋の空浅黄に澄めり杉に斧
　これも同じ心の耽りを他の言葉で云い現したものである。
　　別るるや夢一筋の天の川
　何という意味かその時も知らず、今でも分らないが、あるいは仄に東洋城と別れる折の連想が夢のような頭の中に這回って、恍惚とでき上ったものではないかと思う。
　当時の余は西洋の語にほとんど見当らぬ風流と云う趣をのみ愛していた。その風流のうちでもここに挙げた句に現れるような一種の趣だけをとくに愛していた。
　　秋風や唐紅の咽喉仏
という句はむしろ実況であるが、何だか殺気があって含蓄が足りなくて、口に浮かんだ時からすでに変な心持がした。

　詩に圏点のないのは障子に紙が貼ってないような淋しい感じがするので、自分で丸を付けた。余のごとき平仄もよく弁えず、韻脚もうろ覚えにしか覚えていないものが何を苦しんで、支那人にだけしか利目のない工夫をあえてしたかと云うと、実は自分にも分らない。けれども（平仄韻字はさておいて）、詩の趣は王朝以後の伝習で久しく日本化されて今日に至ったものだから、吾々くらいの年輩の日本人の頭からは、容易にこれを奪い去る事ができない。余は平生事に追われて簡易な俳句すら作らない。詩となると億劫でなお手を下さない。ただ斯様に現実界を遠くに見て、杳な心にすこしの蟠りのないときだけ、句も自然と湧き、詩も興に乗じて種々な形のもとに浮んでくる。そうして後から顧みると、それが自分の生涯の中で一番幸福な時期なのである。風流を盛るべき器が、無作法な十七字と、佶屈な漢字以外に日本で発明されたらいざ知らず、さもなければ、余はかかる時、かかる場合に臨んで、いつでもその無作法とその佶屈とを忍んで、風流を這裏に楽しんで悔いざるものである。そうして日本に他の恰好な詩形のないのを憾みとはけっして思わないものである。

　　　　　　　

　始めて読書欲の萌した頃、東京の玄耳君から小包で酔古堂剣掃と列仙伝を送ってくれた。この列仙伝は帙入の唐本で、少し手荒に取扱うと紙がぴりぴり破れそうに見えるほどの古い――古いと云うよりもむしろ汚ない――本であった。余は寝ながらこの汚ない本を取り上げて、その中にある仙人の挿画を一々丁寧に見た。そうしてこれら仙人の髯の模様だの、頭の恰好だのを互に比較して楽んだ。その時は画工の筆癖から来る特色を忘れて、こう云う頭の平らな男でなければ仙人になる資格がないのだろうと思ったり、またこう云う疎な髯を風に吹かせなければ仙人の群に入る事は覚束ないのだろうと思ったりして、ひたすら彼等の容貌に表われてくる共通な骨相を飽かず眺めた。本文も無論読んで見た。平生気の短かい時にはとても見出す事のできない悠長な心をめでたく意識しながら読んで見た。――余は今の青年のうちに列仙伝を一枚でも読む勇気と時間をもっているものは一人もあるまいと思う。年を取った余も実を云うとこの時始めて列仙伝と云う書物を開けたのである。
　けれども惜しい事に本文は挿画ほど雅に行かなかった。中には欲の塊が羽化したような俗な仙人もあった。それでも読んで行くうちには多少気に入ったのもできてきた。一番無雑作でかつおかしいと思ったのは、何ぞと云うと、手の垢や鼻糞を丸めて丸薬を作って、それを人にやる道楽のある仙人であったが、今ではその名を忘れてしまった。
　しかし挿画よりも本文よりも余の注意を惹いたのは巻末にある附録であった。これは手軽にいうと長寿法とか養生訓とか称するものを諸方から取り集めて来て、いっしょに並べたもののように思われた。もっとも仙に化するための注意であるから、普通の深呼吸だの冷水浴だのとは違って、すこぶる抽象的で、実際解るとも解らぬとも片のつかぬ文字であるが、病中の余にはそれが面白かったと見えて、その二三節をわざわざ日記の中に書き抜いている。日記を検べて見ると「静これを性となせば心其中にあり、動これを心となせば性其中にあり、心生ずれば性滅し、心滅すれば性生ず」というようなむずかしい漢文が曲がりくねりに半頁ばかりを埋めている。
　その時の余は印気の切れた万年筆の端を撮んで、ペン先へ墨の通うように一二度揮るのがすこぶる苦痛であった。実際健康な人が片手で樫の六尺棒を振り廻すよりも辛いくらいであった。それほど衰弱の劇しい時にですら、わざわざとこんな道経めいた文句を写す余裕が心にあったのは、今から考えても真に愉快である。子供の時聖堂の図書館へ通って、徂徠の園十筆をむやみに写し取った昔を、生涯にただ一度繰り返し得たような心持が起って来る。昔の余の所作が単に写すという以外には全く無意味であったごとく、病後の余の所作もまたほとんど同様に無意味である。そうしてその無意味なところに、余は一種の価値を見出して喜んでいる。長生の工夫のための列仙伝が、長生もしかねまじきほど悠長な心の下に、病後の余からかく気楽に取扱われたのは、余に取って全くの偶然であり、また再び来るまじき奇縁である。
　仏蘭西の老画家アルピニーはもう九十一二の高齢である。それでも人並の気力はあると見えて、この間のスチュージオには目醒しい木炭画が十種ほど載っていた。国朝六家詩鈔の初にある沈徳潜の序には、乾隆丁亥夏五長洲沈徳潜書す時に年九十有五。とわざわざ断ってある。長生の結構な事は云うまでもない。長生をしてこの二人のように頭がたしかに使えるのはなおさらめでたい。不惑の齢を越すと間もなく死のうとして、わずかに助かった余は、これからいつまで生きられるか固より分らない。思うに一日生きれば一日の結構で、二日生きれば二日の結構であろう。その上頭が使えたらなおありがたいと云わなければなるまい。ハイズンは世間から二返も死んだと評判された。一度は弔詩まで作ってもらった。それにもかかわらず彼は依然として生きていた。余も当時はある新聞から死んだと書かれたそうである。それでも実は死なずにいた。そうして列仙伝を読んで子供の時の無邪気な努力を繰り返し得るほどに生き延びた。それだけでも弱い余に取っては非常な幸福である。その頃ある知らない人から、先生死にたもう事なかれ、先生死にたもうことなかれと書いた見舞を受けた。余は列仙伝を読むべく生き延びた余を悦ぶと同時に、この同情ある青年のために生き延びた余を悦んだ。

　　　　　　　

　ウォードの著わした社会学の標題には力学的という形容詞をわざわざ冠してあるが、これは普通の社会学でない、力学的に論じたのだという事を特に断ったものと思われる。ところがこの本のかつて魯西亜語に翻訳された時、魯国の当局者は直ちにその発売を禁止してしまった。著者は不審の念に打たれて、その理由を在魯の友人に聞き合せた。すると友人から、自分にもよくは分らぬが、おそらく標題に力学的という字と社会学という字があるので、当局者は一も二もなくダイナマイト及び社会主義に関係のある恐ろしい著述と速断して、この暴挙をあえてしたのだろうという返事が来たそうである。
　魯国の当局者ではないが、余もこの力学的という言葉には少からぬ注意を払った一人である。平生から一般の学者がこの一字に着眼しないで、あたかも動きの取れぬ死物のように、研究の材料を取り扱いながらかえって平気でいるのを、常に飽き足らず眺めていたのみならず、自分と親密の関係を有する文芸上の議論が、ことにこの弊に陥りやすく、また陥りつつあるように見えるのを遺憾と批判していたから、参考のため、一度は魯国当局者を恐れしめたというこの力学的社会学なるものを一読したいと思っていた。実は自分の恥を白状するようではなはだきまりが悪いが、これはけっして新しい本ではない。製本の体裁からしてがすでにスペンサーの綜合哲学に類した古風なものである。けれどもまた恐ろしく分厚に書き上げた著作で、上下二巻を通じて千五百頁ほどある大冊子だから、四五日はおろか一週間かかっても楽に読みこなす事はでき悪い。それでやむをえず時機の来るまでと思って、本箱の中へしまっておいたのを、小説類に興味を失したこの頃の読物としては適当だろうとふと考えついたので、それを宅から取り寄せてとうとう力学的に社会学を病院で研究する事にした。
　ところが読み出して見ると、恐ろしく玄関の広い前置の長い本であった。そうして肝心の社会学そのものになるとすこぶる不完全で、かつせっかくの頼みと思っているいわゆる力学的がはなはだ心細くなるほどに手荒に取扱われていた。今更ウォードの著述に批評を下すのは余の目的でない、ただついでに云うだけではあるが、今に本当の力学的が出るだろう、今に高潮の力学的が出るだろうと、どこまでも著者を信用して、とうとう千五百頁の最後の一頁の最後の文字まで読み抜けて、そうして期待したほどのものがどこからも出て来なかった時には、ちょうどハレー彗星の尾で地球が包まれべき当日を、何の変化もなく無事に経過したほどあっけない心持がした。
　けれども道中は、道草を食うべく余儀なくされるだけそれだけ多趣多様で面白かった。その中で宇宙創造論と云う厳めしい標題を掲げた所へ来た時、余は覚えず昔し学校で先生から教わった星雲説の記憶を呼び起して微笑せざるを得なかった。そうしてふと考えた。――
　自分は今危険な病気からやっと回復しかけて、それを非常な仕合のように喜んでいる。そうして自分の癒りつつある間に、容赦なく死んで行く知名の人々や惜しい人々を今少し生かしておきたいとのみ冀っている。自分の介抱を受けた妻や医者や看護婦や若い人達をありがたく思っている。世話をしてくれた朋友やら、見舞に来てくれた誰彼やらには篤い感謝の念を抱いている。そうしてここに人間らしいあるものが潜んでいると信じている。その証拠にはここに始めて生き甲斐のあると思われるほど深い強い快よい感じが漲っているからである。
　しかしこれは人間相互の関係である。よし吾々を宇宙の本位と見ないまでも、現在の吾々以外に頭を出して、世界のぐるりを見回さない時の内輪の沙汰である。三世に亘る生物全体の進化論と、（ことに）物理の原則に因って無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史を基礎として、その間に微かな生を営む人間を考えて見ると、吾らごときものの一喜一憂は無意味と云わんほどに勢力のないという事実に気がつかずにはいられない。
　限りなき星霜を経て固まりかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なお膨脹して瓦斯に変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、今日まで分離して運行した軌道と軌道の間が隙間なく充たされた時、今の秩序ある太陽系は日月星辰の区別を失って、爛たる一大火雲のごとくに盤旋するだろう。さらに想像を逆さまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮すると共に回転し、回転しながらに外部の一片を振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれ々たる一塊の瓦斯に過ぎないという結論になる。面目の髣髴たる今日から溯って、科学の法則を、想像だも及ばざる昔に引張れば、一糸も乱れぬ普遍の理で、山は山となり、水は水となったものには違かなろうが、この山とこの水とこの空気と太陽の御蔭によって生息する吾ら人間の運命は、吾らが生くべき条件の備わる間の一瞬時――永劫に展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時――を貪ぼるに過ぎないのだから、はかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない。
　平生の吾らはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつて心遣さえした事がない。その心根を糺すと、吾らが生れる以上、空気は無ければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生れるのだから、実を云えば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起るならば、――地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある――活溌なる酸素が地上の固形物と抱合してしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、月球の表面に瓦斯のかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。今の余のように生き延びた自分を祝い、遠く逝く他人を悲しみ、友を懐しみ敵を悪んで、内輪だけの活計に甘んじて得意にその日を渡る訳には行くまい。
　進んで無機有機を通じ、動植両界を貫き、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間なく発展して来た進化の歴史と見傚すとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一頁を埋むべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、百尺竿頭に上りつめたと自任する人間の自惚はまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに溯っては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛きジスイリュージョンを甞めている。
　種類保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、一疋の大口魚が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣になるとそれが二百万の倍数に上るという。そのうちで生長するのはわずか数匹に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者であり、徳義上には恐るべく残酷な父母である。人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、しばらく立場を易えて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ至当の成行で、そこに喜びそこに悲しむ理窟は毫も存在していないだろう。
　こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。そこでことさらに気分を易えて、この間大磯で亡くなった大塚夫人の事を思い出しながら、夫人のために手向の句を作った。

　　　　　　　

　忘るべからざる八月二十四日の来る二週間ほど前から余はすでに病んでいた。縁側を絶えず通る湯治客に、吾姿を見せるのが苦になって、蒸し暑い時ですら障子は常に閉て切っていた。三度三度献立を持って誂を聞きにくる婆さんに、二品三品口に合いそうなものを注文はしても、膳の上に揃った皿を眺めると共に、どこからともなく反感が起って、箸を執る気にはまるでなれなかった。そのうちに嘔気が来た。
　始めは煎薬に似た黄黒い水をしたたかに吐いた。吐いた後は多少気分が癒るので、いささかの物は咽喉を越した。しかし越した嬉しさがまだ消えないうちに、またそのいささかの胃の滞うる重き苦しみに堪え切れなくなって来た。そうしてまた吐いた。吐くものは大概水である。その色がだんだん変って、しまいには緑青のような美くしい液体になった。しかも一粒の飯さえあえて胃に送り得ぬ恐怖と用心の下に、卒然として容赦なく食道を逆さまに流れ出た。
　青いものがまた色を変えた。始めて熊の胆を水に溶き込んだように黒ずんだ濃い汁を、金盥になみなみと反した時、医者は眉を寄せて、こういうものが出るようでは、今のうち安静にして東京に帰った方が好かろうと注告した。余は金盥の中を指していったい何が出るのかと質問した。医者は興のない顔つきで、これは血だと答えた。けれども余の眼にはこの黒いものが血とは思えなかった。するとまた吐いた。その時は熊の胆の色が少し紅を含んで、咽喉を出る時腥い臭がぷんと鼻を衝いたので、余は胸を抑えながら自分で血だ血だと云った。玄耳君が驚ろいて森成さんに坂元君を添えてわざわざ修善寺まで寄こしてくれたのは、この報知が長距離電話で胃腸病院へ伝って、そこからまた直に社へ通じたからである。別館から馳けて来た東洋城が枕辺に立って、今日東京から医者と社員が来るはずになったと知らしてくれた時は全く救われたような気がした。
　この時の余はほとんど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった。苦痛のほかは何事をも容れ得ぬほどに烈しく活動する胸を懐いて朝夕悩んでいたのである。四十年来の経験を刻んでなお余りあると見えた余の頭脳は、ただこの截然たる一苦痛を秒ごとに深く印し来るばかりを能事とするように思われた。したがって余の意識の内容はただ一色の悶に塗抹されて、臍上方三寸の辺を日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった。余は明け暮れ自分の身体の中で、この部分だけを早く切り取って犬に投げてやりたい気がした。それでなければこの恐ろしい単調な意識を、一刻も早くどこへか打ちやってしまいたい気がした。またできるならば、このまま睡魔に冒されて、前後も知らず一週間ほど寝込んで、しかる後鷹揚な心持をゆたかに抱いて、爽かな秋の日の光りに、両の眼を颯と開けたかった。少くとも汽車に揺られもせず車に乗せられもせず、すうと東京へ帰って、胃腸病院の一室に這入って、そこに仰向けに倒れていたかった。
　森成さんが来てもこの苦しみはちょっと除れなかった。胸の中を棒で攪き混ぜられるような、また胃の腑が不規則な大波をその全面に向って層々と描き出すような、異な心持に堪えかねて、床の上に起き返りながら、吐いて見ましょうかと云って、腥いものを面のあたり咽喉の奥から金盥の中に傾けた事もあった。森成さんの御蔭でこの苦しみがだいぶ退いた時ですら、動くたびに腥い噫は常に鼻を貫ぬいた。血は絶えず腸に向って流れていたのである。
　この煩悶に比べると、忘るべからざる二十四日の出来事以後に生きた余は、いかに安住の地を得て静穏に生を営んだか分らない。その静穏の日がすなわち余の一生涯にあって最も恐るべき危険の日であったのだと云う事を後から知った時、余は下のような詩を作った。

　忘るべからざる二十四日の出来事を書こうと思って、原稿紙に向いかけると、何だか急に気が進まなくなったのでまた記憶を逆まに向け直して、後戻りをした。
　東京を立つときから余は劇しく咽喉を痛めていた。いっしょに来るべきはずでつい乗り後れた東洋城の電報を汽車中で受け取って、その意のごとくに御殿場で一時間ほど待ち合せていた間に、余は不用になった一枚の切符代を割り戻して貰うために、駅長室へ這入って行った。するとそこに腰囲何尺とでも形容すべきほど大きな西洋人が、椅子に腰をかけてしきりに絵端書の表に何か認めていた。余は駅長に向って当用を弁ずる傍、思いがけない所に思いがけない人がいるものだという好奇心を禁じ得なかった。するとその大男が突然立ち上がって、あなたは英語を話すかと聞くから、嗄れた声でわずかにイエスと答えた。男は次にこれから京都へ行くにはどの汽車へ乗ったら好いか教えてくれと云った。はなはだ簡単な用向であるから平生ならばどうとも挨拶ができるのだけれども、声量を全く失っていた当時の余には、それが非常の困難であった。固より云う事はあるのだから、何か云おうとするのだが、その云おうとする言葉が咽喉を通るとき千条に擦り切れでもするごとくに、口へ出て来る時分には全く光沢を失ってほとんど用をなさなかった。余は英語に通ずる駅員の助を藉りて、ようやくのことこの大男を無事に京都へ送り届けた事とは思うが、その時の不愉快はいまだに忘れない。
　修善寺に着いてからも咽喉はいっこう好くならなかった。医者から薬を貰ったり、東洋城の拵えてくれた手製の含漱を用いたりなどして、辛く日常の用を弁ずるだけの言葉を使ってすましていた。その頃修善寺には北白川の宮がおいでになっていた。東洋城は始終そちらの方の務に追われて、つい一丁ほどしか隔っていない菊屋の別館からも、容易に余の宿までは来る事ができない様子であった。すべてを片づけてから、夜の十時過になって、始めて蚊の外まで来て、一言見舞を云うのが常であった。
　そういう夜の事であったか、または昼の話であったか今は忘れたが、ある時いつものように顔を合わせると、東洋城が突然、殿下からあなたに何か講話をして貰いたいという御注文があったと云い出した。この思いがけない御所望を耳にした余は少からず驚いた。けれども自分でさえ聞かずにすめば、聞かずにいたいような不愉快な声を出して、殿下に御話などをする勇気はとても出なかった。その上羽織も袴も持ち合せなかった。そうして余のごとき位階のないものが、妄りに貴い殿下の前に出てしかるべきであるかないかそれが第一分らなかった。実際は東洋城も独断で先例のない事をあえてするのを憚って、確とした御受はしなかったのだそうである。


